フルート 齋藤 寛 オフィシャルサイト

息、利き手、AI、人

表現の自由の中では、全てが範疇であると思いますが、人の文化なので、やはり音楽には熱が必要だと個人的には思います。鬱陶しいほどの熱や人肌のぬくもりは音楽の根源なのではないでしょうか?汗だくで太鼓を叩き、手をとって踊り、時には子どもを抱いて歌う子守唄のように。

弦楽器は、利き手に音楽を託しました。繊細にも雄大にも描けるように。それは惹くことです。

管楽器はそのために「息」を選びました。

息を吹いて音を出す。息吹(いぶき)。生気や活気のあること、の意味になります。言葉遊びですが、このように考えると人が演奏する意味がある気がしてきませんか。

話が広がりすぎましたが、苦手を少しずつでも克服しようと精進し、演奏をより良いものに、練習を充実したものに、アンサンブルを楽しみ、奏でる音に喜びを感じられることは、これこそ人たらしめることだと思います。

利き手にしても息にしても、音楽の前ではいずれも不器用です。だからこそより良くしようと、これまでの発展があるのでしょう。

おそらくテクニックの問題など、音楽全体を俯瞰すれば些細なことです。なぜなら、完璧でない演奏に感動することは少なからずあることだからです。その逆もしかり。そこにはタマシイ(魂か霊)、生気がこもっているか否かだと思うのです。

ミャンマーや台湾の一部の民族には、鼻で吹く「鼻笛」という伝統楽器があります。世界的にみても珍しい演奏方法です。なんらかの理由があったのかもしれませんが、その方が都合が良かったのでしょう。

先入観や固定観念に縛られてしまうと、「こうあるべき」と考え勝ちですが、もし、フルートも鼻で吹いていい音楽が出来るなら、私はそれでも構わないと思います。


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