フルート 齋藤 寛 オフィシャルサイト

自由な演奏

社会に出て自由になった私は、完全に路頭に迷いました。(これについては、また別の機会に書くとして…)

自由になるためには、その枠組の中でルールに則って語彙を増やし実践できるようにならなければなりません。

これは楽譜がすべてと言われるクラシック音楽にも当てはまります。それは、元々作曲者の頭の中を自由に飛び回っていた音楽を書き写したものだからです。楽譜はそれ単体では、音楽を奏でません。演奏者は、楽譜から音楽を解き放ち、あたかも今生まれた即興であるかのように生き生きと蘇らせるのです。

西洋音楽は、この自由を手に入れるための歴史でもあります。宗教的な理由で、使ってはいけない音使いや、定められた音階のせいで、限られた調でしか演奏出来ず、和声の動きは厳格な縛りがありました。

十二平均律が広まって以降は自由な転調が出来るようになりました。ロマン派では、作曲者の感情を表現するためにこれらの禁則は邪魔なものでした。印象派では、あえて禁則を用いることで、新しい響きを得ました。近代へと進むにつれ、さらに新しい音楽のため禁則は取り払われました。現代はといえは、禁則とよべるものは何もありません。完全に自由です。

では、禁則で縛られていた時代の音楽が、豊かでなかったかと言えば、そうではないと思います。その枠組の中で自由だったはずです。禁則だらけの教会音楽は、美しく響きます。もしこの音楽に、今の【自由】を持ち出して演奏すれば、それがどんなに惨めなものか、想像できるのではないでしょうか。バッハのカンタータとヴェルディのオペラでは歌い方が違って当然なのです。

自由は枠を外れるとデタラメになってしまいます。このデタラメが市民権を得るというのが、音楽の歴史でもあるのですが、それらが行われるのは常に新しい音楽に対してです。

自由な演奏とは、はみ出さないよう丁寧に色を付ける塗り絵に似ていると思います。


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