印象主義音楽の誕生
ドビュッシーの作品はしばしば「印象主義」と呼ばれますが、彼自身はこの呼称を好んでいませんでした。それは、印象主義という用語が元々画家たちに対して使われた言葉であり、音楽の分野に転用されたものであることに起因しています。印象派は、画家たちによって先に用いられ、展覧会でのモネの出品作「印象・日の出」から、批評家が印象派たちを皮肉ったことに始まりました。そのため、当初は好意的な意味を含んでいなかったのです。
言葉の反面、音楽モネやルノワールといった印象派の画家たちの作品に通じるところがあり、ぼんやりとした境界線や色彩の微妙な変化を音楽で表現することを試みました。特に「海」や「映像」などの作品では、自然の風景や光の変化が音楽によって描かれています。表面的に区別される言葉ではなく、美術的色彩を音楽的にどのような手法をもちいて表現すればよいかを探求していたのです。

モネ:「印象・日の出」
私生活の波乱
ドビュッシーの私生活も非常に波乱に満ちたものでした。彼は多くの女性と関係を持ち、その多くがスキャンダラスなものでした。特に有名なのは、妻ロザリー・テクシエ(愛称:リリー)との関係です。ドビュッシーは彼女と結婚しましたが、すぐに別の女性、エンマ・バルダック(歌手)と恋に落ちました。これが原因でロザリーは自殺未遂を起こし、ドビュッシーは音楽界や社交界から非難を浴びることとなりました。それでも彼はエンマと再婚し、彼女との間に娘クロード=エンマ(愛称:シュシュ)をもうけました。その子が3歳の時に書かれたのが『子供の領分』(こどものりょうぶん、原題:Children’s Corner)です。
音楽的革新と晩年
ドビュッシーは生涯を通じて音楽的な革新を続けました。後期作品では、さらに自由な形式と複雑な和声が探求されました。例えば、ピアノ作品「前奏曲集」や「12の練習曲集」では、各曲が独立した音楽の世界を持ち、多様な音楽的アイデアが詰まっています。また、オペラ「ペレアスとメリザンド」は、その独特な音楽言語と劇的な表現で大きな反響を呼びました。