フルート 齋藤 寛 オフィシャルサイト

努力は報われるのか

諦めたらそこで試合終了ですよ、と安西先生は言いました。

(昨今ネタとして扱われることも多いこの言葉ですが、私もこの世代の人間なので、本日はマジメに書いてみたいと思います。)

この言葉に救われて努力を続けている人も多いのではないでしょうか。かく言う私もその一人です。

折れて、挫けて、何度諦めてしまおうと思ったことでしょう。そしてこれは今後も続きます。

「諦めたら試合終了」は、諦めるのが自分なので必然の事です。だからといって、諦めなければ試合が終了しないかといえば、そんな事はありません。必ず終わりはやってきます。勝つかもしれないし、負けるかもしれません。この言葉の意味は、限られた時間の中でモチベーションを維持する以外なく、成功を保証するものではないのです。勝負の世界においては過酷な言葉です。諦めれば負けは確定し、諦めなくても勝てるかどうかわからないのですから。つまり、ちょっとでも気を抜いたら負ける方へ傾くということです。

もし、試合の「時間」という制限を無くせば、文字通り諦めなければ勝てるのかもしれません。気力も体力も同じ領域なら、それらを使い果たし誰も試合を継続できない状況にまで陥って尚、「諦めない」強靭な精神力で立ち上がるなら可能性はあるかもしれません。しかし、人は全てにおいて平等ではなく、何かしらの差があります。自分より体力や精神力が勝る人が相手なら、倒れるまで抗って認めなければなりません。そして、ただでは起きないと誓うのです。

努力が報われるという道理が通用するのは、目的がその努力で手の届くところにある場合のみです。

「努力は必ず報われる」というのは真実でしょうか、キレイ事でしょうか。

大体においてこれは、裏切られたと感じるものです。

なぜでしょう。

それは、無意識にその努力に見合った見返りを求めているから、うまく行かない時余計に挫折感を味わうことになるからでしょう。もっと言えば、見返りを求めている時点で本当の意味で「報われる」ことはないのです。

例えば、「母をたずねて三千里」という話がありますが、母と出会えたのがたまたま三千里先であって、千里を移動した辺りで「そろそろ会える頃だよな」とは思わないはずです。もし、母に会えなければ四千里以上でも探し回ったことでしょう。

これは、努力をし続ける人にとって助けになる考え方だと思います。

たとえ受験に失敗しても、コンクールに落選しても、上達した実感がなくても、生活が苦しくても、「今はまだその時ではなかった」と。

しかし、大事なことがあります。「母をたずねて三千里」の主人公マルコには、「母に会う」という”目的”がありました。

努力の先には明確な目的が必要です。闇雲に歩き回っても出会えるはずはなく、もし仮に出会えたとしても、それはギャンブル的な賭けのように確実性の根拠がありません。この状態を「努力している」と錯覚しまうから厄介です。しかし、結局これも後になってからわかることですが、迷い続けることは立ち止まるより何倍も価値があります。

「目的」があるから常にその方向に導かれ、目を向ければ些細な事柄に敏感になり、それらをつなぎ合わせて近づいていけるのです。人は向いた方向しか見えませんからね。またそのようにしていると視界が開けて、周辺が見えるようになるでしょう。

しかし、目的を持って、努力を重ねても、かなわないことも多くあります。諦めずに練習したからといって、イチローや松井のようなバッターになれるとは限りません。同じように練習して、同じように努力しても頭一つ抜きに出るのはほんのひと握りだけなのも事実です。彼らは口をそろえて、「まだ道半ばですから」と言い、現状に満足せずに努力を続けます。人はこれを「才能」という言葉で片付けてしまいますが、歩みを止めない彼らに少しでも近づくには、例えその領域まで踏み込めないとしても、努力を諦めないことだと思います。諦めないことも「才能」のひとつです。

たとえば私が、モーツァルトやバッハ、または歴史的な巨匠のと肩をならべるようなことは難しいでしょう。しかし、その道で努力を続ければ、少しずつでも近づくことが出来ると思っています。

ジェットエンジンを積んだ「才能」は、目的地までひとっ飛びです。自分はといえば、飛べないので、電車を乗り継いで、歩いて、時には彷徨って、船に乗って、断崖絶壁を超えて移動しないといけないかもしれません。その歩みは遅く、疲れてしまうでしょう。でも、彼らが知らない景色を観ることが出来るのも事実です。迷いながらも確実に目的に近づくことが出来ているし、それらの体験は今後の何かに生きてくるのではないでしょうか。とはいっても通常、何のなぐさめにもなりません。

世の中は「結果」が全てです。マルコは母に会えたからこそ物語になりました。野球選手も成績を残さなければ、何を言っても認められません。コンクールも入賞に価値があります。結果があってこそ、その軌跡が求めらるのです。

私たちは結果を残さないといけません。人それぞれが目的を達成した「結果」です。そのためには努力が必要です。結果が出るまで努力すれば、必然的に努力は報われたことになりますね。しかし終わりではありません。その先も、次の目標に向かうのです。小さな結果の積み重なりが大きな成果になります。

努力することは根性論としてとらえられることがありますが、それではいずれ音を上げてしまうでしょう。自分を奮い立たせるものが何なのか、知る必要があると思います。そのための原動力になるなら、どんな煩悩にまみれたものでも構わないと思っています。

そして時として、努力する者には副産物が与えられることがあります。それは、本線上にあるかもしれないし、脇道にあるかもしれません。おそらく当人しか気づかないでしょう。それが思わぬ「結果」を呼ぶかもしれません。大切にすべきです。

安西先生の言葉は、人生という試合時間の中で考えると、非常に含蓄があります。

自戒の念をこめて。


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