フルート 齋藤 寛 オフィシャルサイト

音楽物件

異変は、卒業後まもなく現れました。新たな隣人が引っ越してきたのです。挨拶もなかったのでどのような方かは、最後までわかりませんでしたが、時たま聞こえてくる唸り声や叫び声でおそらく男性であったと思われます。彼はピアニストでした。そして、グランドピアノを使用しているようでした。聞こえてくる音が、アップライトのものとは違うように感じられたので、そうだったのでしょう。

卒業後はフリーとなりましたので、必然的に家にいる時間が多くなってしまいます。当然、他の部屋からは時間帯によりますが何かしらの音が聞こえてきます。それはいつものことなので特に意識するものではないのですが、この新しい隣人はどうやら違うようです。隣だからよく聞こえるというのもありますが、彼は時間の許す限り弾き続けました。朝から夜まで、毎日ほとんど休むことなく。練習熱心で大変に結構なことですが、問題がありました。何故かひとつのフレーズだけを永遠に弾き続けています。何の曲かわかりません。他のものは聞こえたことがありません。ともかく5秒で終わるフレーズを、壊れたレコードのように続けるのです。意味がわからない。この時、私は作曲や編曲にも取り組むようになっていたので、この絶えず浴びせられる呪いのような音が、思考を邪魔して何も手に付きませんでした。水拷問ならぬ音拷問です。音の無い深夜の時間を狙って、作業を続けるようになったのですが、この呪詛の中昼寝をすることも出来ず、また仕事に出ることもあり、昼夜を逆転させた生活で体力的も精神的にも完全に参ってしまいました。

この事を大家さんに相談したところ、気前のいい大家さんは、今空いている他の物件に移っても構わないと提案してくれたのです。大家さんは何件か音出し物件をお持ちでした。一刻も早くこの呪われてしまった地を抜け出したかったので、このご厚意に甘えることにしました。

Pages: 1 2 3 4 5 6

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です